上村真理子 戦時資料室

戦時資料 木製

 A-105 「銘酒 澤の鶴木製看板」 大黒さんの絵 満州販売所 (52×42×1.5:木)

1717年創業の伝統ある神戸市灘の酒造販売会社。1995年阪神・淡路大震災で被災した。沢の鶴資料館は地震で倒壊したが、1999年再建された。

満州国

1932年3月、清朝最後の皇帝溥儀を執政とし、建国宣言した。現在の中華人民共和国の東北部に存在した国であり、首都は新京(長春)におかれた。 外面は独立国だが、事実上日本の植民地であり、ソ連に対抗する軍事基地となる。1945年8月日本の敗戦で満州国は消滅した。

  

 A-107 「木銃」  (166×17:木)

旧日本軍で訓練されていた銃剣術に使われたのが木銃である。

木銃を用いて、相手の喉や胴などを突き合う競技。昭和15年銃剣術から銃剣道に名称変更。

木銃の長さは、約166cm。三八式歩兵銃(弾5発装填)に銃剣を着剣した長さである。

大日本帝国陸軍の小銃は三八式であり、第二次大戦中、ずっと使用された。三十年式を改良し、明治38(1905)年採用されたので、 さんぱち式の名前で呼ばれている。

  

 A-109 「徴兵保険会社看板」 3点 

①徴兵保険株式会社取次所(看板1点)(15×60×20:木)

②③富国徴兵保険相互会社(看板2点)(12×59×17,45×29×23:木)

  

徴兵保険は、1870年代ドイツで生まれた保険制度であり、日本はドイツの保険業をモデルとした。男児が誕生したら、小さい時から親は掛け金を払う。子供が徴兵年齢満20歳になり徴兵検査に合格し入営した場合、保険金が迅速に支払われる仕組みである。子供の成長とともに必要な、まとまったお金を補う現在の学資保険のようなものであった。

①は1898年(明治31)創業。日本初の徴兵保険会社であり、後に第一徴兵保険と名称変更、戦後は東邦生命となったが、1999年経営破たん。ジブラルタ生命保険会社へ吸収合併される。

②は1923年(大正12)創業。現在は富国生命保険会社、略してフコク生命。縦看板と横の木製看板の2点

  

 A-138_1 「竹製機関銃」 戦前子供用玩具 (78×8:木)

銃身部分と本体部分を二つの竹筒で組み合わせて使用する。

手前のレバー(取っ手)を持って回すと、カタカタ、カタカタと音がなる。

  

 A-138_2 「木製台座銃」 戦前子供用玩具 (48×12:木)

  

  

 A-161-2 「戦前国民学校教材」(32×11:紙袋 木)

文部省制定 国民学校第四学年工作

模型装甲自動車一組 日本理数芸能教材組合

  

 A-161-3 「戦前国民学校教材」(49×11:紙袋 木)

模型軍艦(潜水艦)セット 国民教材社

  

 A-167_1 「武運長久を願う木札」 (60×15:木)

皇軍勝利海陸軍兵士忠勇顕功身体安全

御嶽神社 神力加護 武蔵国御嶽山鎮座

祈願者 篠貞吉殿

篠貞吉氏が、皇軍の勝利と海陸軍兵士の無事を御嶽神社の神に祈願したものである。

  

 A-167_2 「武運長久を願う木札」 (25×12:木)

出征軍人山中仲十郎君

祈願武運長久身体健康八村八社拝礼

祈願者 兄弟一同

出征が決まった兄(弟)のことを思い、家族が祈願したものである。

村にある神社に足を運び、兄弟が無事、故郷の土を踏むことができることを、強くお願いしたことであろう。

  

 A-205 「戦前玩具 教育知恵の組木」(13.5×5.5×5.5:木組)

箱の中に、組木と一緒に発売元の案内文チラシがあります。 「時代が生んだ教育玩具界の王座」と書いてありますが、まさにその通り、戦時下の世相を反映した玩具です。この組木は、立体的パズルであり、飛行機や軍艦、装甲自動車にもなります

チラシから抜粋した文

子供は玩具の友達 子供の教育は玩具から 本品は男女子供に非常に喜ばれ、且つ教育の参考品なれば、この図の外、色々の型を考案してください。

組木見本 飛行機 装甲自動車 潜航艇 タンク(戦車) 軍艦 電車 五重塔 汽車&トンネル 竜宮城

  

 A-209 「皇軍慰問ユーモアパズル箱入娘」(9×7:木)

パズル「箱入娘」遊戯説明書

昔乍の「箱入娘」深窓に淑やかに育ってきた箱入娘も、今は一人家庭に静かに閉じ篭っている事は許されません。 一億一心、全ての日本人が一丸となって立上る時「箱入娘」も進んで国家の御役に立たなければならない時が来ました。 勤労奉仕!どんな人でも全て御国の為に捧げなくてはなりません。

---遊戯の方法は各牌を先ず配列し、娘牌を出口まで出せばよいのです。

戦争が長期化すると、戦地にいる兵隊さんを励ます慰問の手紙や、慰問袋が登場する。 袋には、手紙や絵、キャラメルや石鹸、雑誌や薬、御守り、ゲーム、人気女優ブロマイドなどが入っていた。 慰問品は、大いに兵隊の士気を高めるので、軍は奨励から半強制的にその供出を求め、職場・学校・隣組等に割当て、宛先も不特定の兵隊さんになった。

  

 A-216 「高等科二学年滑空機 文部省型国民学校教材」

①滑空機国民学校教材 4種(外装 左から48×5、70×6、90×7 83×7:木)

②三級滑空士免許状(昭和20年8月3日発行)25.5×12.5:紙)

最右 高等科2学年(現在の中学2年生)の授業で使われた模型教材である。

戦前の日本では、同盟国のドイツを見習い、模型飛行機教育を、国民学校の科目とした。 ドイツは早くから子供達に模型飛行機の製作・飛行と原理研究が、学校で正課教育されていた。 日本の文部省も、小中学校で模型航空機教育を利用して、子供達に科学・軍事教育を行ない、少年達の関心を航空に集中させたのである。

※滑空機---グライダーである。エンジン等の動力なしで空を飛ぶ乗り物、またはその模型。

小学校が昭和16年国民学校に変わり、教育も戦時教育が一層強く反映されたものとなる。 模型飛行機教育は国民学校1年生から始まり、高等科2年生までの八年がかりの長期計画であった。

NHK戦争証言 アーカイブス 日本ニュース第67号(1941.9.16公開)より

今、国を挙げて戦時下、意義深き航空日を迎えるにあたり、次の時代を担う若き国民が、 大空に寄せる限りない情熱と憧れの頼もしい姿をお伝えいたしましょう。  これは東京入新井第一国民学校5年生の模型飛行機の製作実習です。模型飛行機はもはやおもちゃではありません。 正確に、厳密に、少年たちは、竹と木と紙とゴムと、そうして針金を使って、航空科学に盛られた理論を実際にうつしていくのです。  こうして日本全国の国民学校の教室に、幾百万の幼き科学者たちが、遥かなる空への憧れに小さな胸を躍らせているのです。 自分の手で作った模型飛行機が秋空にさまざまな夢を乗せて飛んでゆく。 その少年の夢は、やがて本当に空を飛ぶという喜びとともに実現されていきます。

  

 A-220_1 「戦時色濃い菓子木型」 (18×12×5:木)

鉄カブト 昭和13年萬成堂製菓舗 二枚型

二枚型は、中に餡が入るような厚みのある菓子を作る時に使われ、表裏が違う模様にもできる。

落雁は、かつて結婚式や法事の引き出物として欠かせない贈物であった。 鶴・亀・松竹梅・鯛・海老・蓮の花や蓮の実などがデザインされた菓子木型が使われていた。 時代の流れとともに、落雁などの需要は減り、菓子木型職人も減り、木型は使われなくなってきている。 鉄カブトや大砲のデザインは戦意高揚の為のものであろう。

  

 A-220_2 「戦時色濃い菓子木型」  (13×8×1.5:木)

大砲 一枚型

一枚型は厚みの薄いお菓子を作る時に使われ、片面しか模様は出来ない。

  

 A-220_3 「戦時色濃い菓子木型」  (21×10×4:木)

入営祝い 二枚型

  

 A-316 「日独伊親善 玩具」

①日独伊三国の独楽(直径5:木)

②日独伊三国の紙飛行機(13:紙)

三国防共協定締結の翌年1938年には、イタリー使節が来日、独逸の若き使節ヒトラーユーゲント(青少年団)も 来て、親善交流を深めることになる。その世相を背景に、絵本や子供達の遊びのなかで、独逸やイタリアは、 友好国として子供達の心に浸透していった。

昭和12(1937)年7月、日中戦争が始まった。その年の11月、共産主義に対する防衛のため、 日独伊三国防共協定が結ばれた。協定でつながりを深めていた三国は、第二次大戦下、1940年さらに軍事同盟を結ぶが、 日中戦争や世界大戦にまだ参加していない国から攻撃を受けたら、共に協力して戦うことを決めた。 これは、アメリカを意識しての同盟であり、日本は、三国同盟が対米抑止力になると思ったようだが、現実は米国と戦うことになる。

  

 A-328 「満鉄の看板と社旗」 (159×35×2.5:木)

①南満州鉄道株式会社(満鉄)の看板

満鉄は、1906年(明治39)、日本の国策でつくられた 会社である。鉄道事業を中心として、炭鉱開発・製鉄業など多様な事業を行った。

1931年の満州事変、そして翌年の満州国成立後、満鉄は、満州の植民地支配に大きな役割を果たす。本社は大連に置かれたが、満州国成立後、首都の新京が事実上の本社となる。

②南満州鉄道株式会社(満鉄)の社旗

満鉄マークの中央I印は、レールの断面であり、 それに、ManchuriaのMを重ねたものである。

  

 A-362 「満州第558部隊遺留品木箱」(26×64×208:木)

満州国興安北省海拉(ハイラル)爾

満州第五五八部隊根岸隊○○遺留品

木箱の両横に、どちらも同じく上記の文字が、墨で大きく明記されている。

「資材運搬用の木箱(内部には湿気止め・密閉度を高めるために節等に塗り込みがなされている。)もしくは弾薬箱」

満州第五五八部隊は、第23師団歩兵第71連隊に所属する部隊である。1939年満州と外蒙古間の国境紛争で、ソ連・外蒙軍相手に戦う(ノモンハン事件)。 8月にソ蒙軍に対して、総攻撃を行うが、戦死者・負傷者・行方不明者を多数だした。8月26日歩兵第71連隊長自身、戦死している。戦車や装甲車を駆使したソ連の優勢な火力と圧倒的機械化部隊に対して、日本軍は、厳しい戦いを強いられた。9月停戦協定が結ばれ、国境線はソ蒙軍の主張が受け入れられる。木箱の遺留品は、この戦いで戦死した兵士の遺留品と思われる。日本軍の死傷者は二万人を超える。軍はノモンハンの敗北を封印しようとした。戦場には、今もなお三千体を超える遺体が眠っている。

  

 A-366 「大日本産業報国会紙芝居木枠」 (41×36×100:木)

紙芝居木枠扉に大日本産業報国会中央本部寄贈

紙芝居木枠上部に大日本産業報国会のマーク

1937年日中戦争が始まると、翌年戦争協力の為に、労資一体の産業報国会という組織ができた。労働者を軍需産業に従事させる目的でつくられたが、さらに統制を強め、労働組合解散し、内務省・厚生省主導下に1940年全国の産業報国会をもとに国策の大日本産業報国会ができた。つまり、戦争に打勝つ為、労資一体となり一致団結して生産に向かわせる組織であり、労働者の賃金や職場環境を良くする為の組織ではない。

大日本産業報国会のマーク

三つの白線で真紅の日の丸を囲み「一億国民団結力と八紘一宇の精神を象徴したデザイン」杉浦非水氏考案(神奈川県公文書館展示情報、H21第二回ミニ展示「産業報国会の時代」より)

  

 A-369 「南方進出玉遊び(戦時中の子供ゲーム)」 (17×21×3:木)

戦時中に、子供達が遊んだゲームである。上に南方進出玉遊び」とゲームのタイトルが書かれている。

左下日本が出発点であり、玉を転がして進む。途中7か所穴がある。日本→香港→フィリピン→仏印→タイ→マレー→ボルネオ→スマトラ→ジャバ→セレベス→ビルマ→インド→ニューギニア、終点はオーストラリアになっている。日本で一番高い山の富士山と飛行機の絵をはじめとして、日本人が感じた南方の各国の特色を描いている。水牛やへび、虎や象、ヤシの実、パイナップルなど動植物が多い。中央に仏舎利塔を中心にタイの王宮寺院や、ビルマの象使いの絵もある。最後はオーストラリアに多い動物、羊の絵だ。

※遊びの中でも、当時の子供達は日本軍の南方快進撃を素直に喜び、占領地域が拡大することに、胸躍らせていたのである。しかし、喜びも束の間(つかのま)、日本軍は厳しい戦いを強いられていくことになる。

  

 b-002 「銃(玩具)」  (80×35[日の丸含):木)

前掲のポスターで男児が担いでいる鉄砲と同等の玩具

 b-003 「ボーイングB29実体模型」 (47×29:木)

敵機識別訓練用 一〇〇分ノ一

制作設計図並説明書

未組立のものを開封し木製パーツを仮置きして撮影

  

 c-002 「墓標?看板」 (76×12×2:木)

(表)敬弔故陸軍伍長織部孝司君之英霊

(裏)東洋生命保険株式会社代理店

  

 c-004 「看板」 (150×29×2.5:木)

(表)皇国第四一〇七工場附属作業所

(裏)(巴マーク)トモエ肥料