上村真理子 戦時資料室

戦時資料 布製

 A-004 B-001 「千人針(2枚)」 (①110×17 ②70×17:布)

千人の女性達が、出征兵士の武運長久を願い、白い布地に、赤糸で一針ずつ縫って結び目をこしらえた。 日中戦争の頃から盛んになる。五銭・十銭の穴あき硬貨をくくりつけ、「5銭は、死線を越える」「10銭は苦戦を免れる」など、 語呂合わせの縁起担ぎである。千人針には、虎の絵が好まれた。虎は「千里を行き千里を帰る」という故事に基づき、どんな遠い戦地でも、 兵士が無事帰ってくるという願いを込めたものである。寅年生まれの女性は、年齢だけの数の結び目を縫うことができたので、とても重宝がられた。

  

 A-019 「満州国国旗」 (79×70:布)

1931年満州事変。1932年3月建国宣言。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀は執政となり、1934年皇帝となる。 外面は独立国だが、満州国は関東軍の強い影響下に置かれ、事実上日本の植民地であった。 当時の国際連盟加盟国は、満州国を認めない中華民国を支持して、日本政府を非難したが、1933年日本が国際連盟を脱退する大きな原因となった。

  

 A-050 「満鉄(南満州鉄道株式会社)腕章」 (34×15:布)

満鉄のマークは、中央I印レールの断面に、ManchuriaのMを重ねたものである。

腕章の裏に、関東軍旅順要塞司令部146印

  

満鉄は、日露戦争後、ポーツマス条約でロシアから得た東清鉄道の長春-旅順間の鉄道鉱山製鉄業などを経営。 とくに1931年満州事変後、満州の植民地支配に大きな役割を果たす。関東軍は1919年設置。遼東半島の旅順に司令部が置かれた。最初は、関東州(遼東半島南端)と 南満州鉄道の警備が主な任務の小規模な一個師団の軍であった。司令部は満州事変勃発と共に奉天、満州国成立後新京(長春)に移り、関東軍司令官は、満州国大使と関東庁長官を兼ね、 事実上、満州における軍事・行政のトップであり、全満州に君臨した。

  

 A-111 「Z旗(黄・赤・黒・青の四色)」 (82×71:布)

Z旗は、国際信号旗の中のアルファベット文字旗の一つである。海上において船舶間同士で利用される世界共通の通信旗である。 Z旗の意味は、「引き船が欲しい」、魚場では「投げ網中」の意味を示す信号である。 1905年日露戦争の時、Z旗は「皇国の興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の信号旗として、旗艦三笠のマストに掲げられ、 日本軍は奮戦してロシアのバルチック艦隊に勝利した。Z旗は、日本海軍では特別な意味を持つようになり、太平洋戦争でも、命運を分ける決戦の時、旗艦マストにZ旗を掲げた。

  

 A-123 「入営祝「寄書き日の丸」」 (89×58:布)

この旗は入営祝の時、贈られた「寄書き日の丸」であり、日の丸に書かれている文字は--- 

武運長久  米鬼撃滅  神兵必勝  至誠一貫  必勝

「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つ吾は」 この歌は、昭和17年11月発表の愛国百人一首の一つである。

  

兵士達は、家族の写真や手紙、「お守り」の他に、「寄書き日の丸」を戦地に持って行った。 出征する兵士の為に、親兄弟はじめ、親戚、友達、近所の人など多くの人が名前を日の丸に署名した。日の丸には、「武運長久」という文字がある。戦いの幸運が長く続くのを祈ることとは別に「無事に故郷へ生きて帰ってきて欲しい」という願いが込められていたのだろう。兵士達は、寄書き日の丸をもらい、折り畳んでたすきがけに巻き戦地に赴(おもむ)いた。(戦争末期は入営してすぐ戦地が多くなる)

  

 A-127 「大日本国防婦人会の旗」 加納町西区分会 (80×68:布)

旗のマークは、上に大の字、下にリボンと中央に旭日マークに月桂の飾りで、旗の房は紫色。

1932年(昭和7)、満州事変の翌年、大阪の女性達により、出征兵士見送りなどの奉仕活動が起こる。それを陸軍が後援し、全国的規模の組織に発展した。 明治にできた愛国婦人会よりも、大衆的組織であり、「国防は台所から」というスローガンをかかげ、割烹着に襷がけの姿で、女性達は千人針など軍人援護の活動を行った。 1942年(昭和17)、全ての婦人会が大日本婦人会に統合された。

  

 A-137 「出征祝 寄書き日の丸」 (98×75:布)

この旗は出征の時、家族や同級生達から贈られた「寄書き日の丸」であり、昭和17年10月7日の日付が記されている。 「武運を祈る」「元気で」の文字が多い。「家族のことは心配なくお元気で」「○○の出征を御喜び申しあげます」等は家族が書いたものと思われるが、 このように書くのが精一杯だったのだろう。今度貴公と会う時は「靖国神社で会いましょう」と戦死を前提としてのものもある。 白木の箱で---の寄書きにはびっくり。

  

 A-165 「戦時下薬局の宣伝旗」 (170×32:布)

産めよ殖やせよ健康児 子宝ウィタミン ユべラ

水色の布地に、たくさんの赤ちゃんの顔あり

  

 A-272 「大日本航空青少年隊腕章」(布)

1941年1月大日本青少年団が結成された。 国家の強い指導下に置かれ、挙国一致の新体制(戦時体制)に即応したものであった。 団長は文部大臣であり、地方団長は府県知事、その下に学校長が就任し、全国の青少年が国民学校初等科3年生から25歳までが、 大日本青少年団員であった。

1941年5月には大日本青少年団の下に大日本航空青少年隊が結成された。 規定では,この大日本航空青少年隊は,青少年団の中から希望者を選抜し,一般教養の教育は青少年団が担当するが, 航空訓練については1940年(昭和15)発足した大日本飛行協会が担当することになっていた。

大日本航空青少年隊隊歌  大日本飛行協会選定

 父祖にうけたる此の血潮 忠と孝とを胸にしめ

 清き桜の花と咲き 玉と砕けて顧みじ

 ああ燦たりや 大日本 我等航空 青少年

   

 A-281 「防毒マスク」 昭和14年11月製造 (27×15×14(箱):布、ゴム(本体))

内務省御検定品 防空用 防毒面団用二号乙型 直結式 藤倉工業株式会社

防空用防毒面防毒服案内パンフレットより

近代戦に前提なし 防護の完整と訓練は平時が大事!

◎老幼病者以外の全家族は必ずとどまって防護の重責を果たさるべし。

◎全員総避難の時機は、全く消火の見込みなきか、毒ガスのみで火災の憂いなき場合たるべし。

防護の備えあれば 毒ガス怖るるに足らず!

  

第一次大戦で毒ガスが使用され、化学兵器に対する備えが必要となり、日本軍も戦場で鉄カブト・水筒同様、個人装備に防毒マスクが常備されるようになった。 銃後の生活では、空襲に備えて、政府は毒ガスの脅威を叫び、防毒マスクの必要性を強く国民に訴えた。当時は様々な防毒マスクが市販されていた。 防毒マスクは、団用と家庭用がある。団用は、空襲の際防護作業に従事する人用、そして一般家庭用がある。 この防毒マスクは団用二号であり、一般防護団員及び空襲時に依然業務に従事する諸官公署の職員・軍需工場従業員の専用品。 一号は都市防衛の最前線に活躍する防護団員・警察官・消防隊・諸官公署の職員・軍需工場従業員に於いて空襲時濃厚なガス中での災害防止に任ぜられる場合の専用品である。 甲型が乙型より有効使用時間が長い。

  

 A-284 「入団祝の旗」 佐世保海軍工廠造船部艤装工場山辰組一同 (60×175:布)

旗のデザインは、一番上には、金のとびである金鵄勲章の図柄、その次には左に旭日旗、右は日の丸である。旗は紺色の縁取りがしてある。

境氏は、佐世保海軍工廠で働いていた人であろう。工廠とは軍隊直属の軍需工場であり、佐世保工廠は主に艦船の修理や計軽洋艦・駆逐艦などが建造された。

旗の贈り主は、造船部艤装工場の職場一同である。艤装は船舶の船体以外のあらゆる装備品を施工することであり、境氏もこの仕事に従事していたのであろう。

  

志願者・兵役義務者が兵役につき、はじめて兵営にはいることを入営というが、 海軍の場合は、新兵はまず基本的なことを数ヶ月間、海兵団で学ぶので、入団という言葉が使われる。

  

 a-300 「神風」日の丸の手拭  (30×42:布)

「語り継ぐ戦争の記憶」新老人の会熊本 2010年発行

旧制菊池高女 中川(東)千鶴さんの勤労動員記録「神風の吹くを信じて」より引用

『今、私の文箱の中に一本の古い鉢巻が入っている。 航空兵器総局長官遠藤三郎謹書「神風」と染め抜いた「日の丸鉢巻」だ。勤労動員学徒に贈られたもので、長い歳月、汗と油、時には涙も滲んだであろう。 薄茶色に変色している。 その「日の丸鉢巻」を締めて寮から2キロほどを毎日「尽忠(じんちゅう)菊池の歌」を歌いながら、航空機製作工場に往復した姿が彷彿としてくる。 またその鉢巻には習字の先生直筆(じきひつ)による「菊池高女勤労学徒 東」の文字が薄く読み取れる。寮の先生の部屋で書いて頂いた記念の文字。 洗えば何もかも消えてしまいそうで、洗うことができなかった。』

昭和19年9月、勤労動員令により県下の中学校・女学校の三・四年生は一斉(いっせい)に勤労動員学徒として、熊本市健軍町の三菱航空機製作所に出動した。

  

 A-304_1 「戦時色濃い着物のハギレ」 (62×125:布)

ハギレの図柄

◎勇ましい海軍 軍艦 ◎兵隊ごっこ ◎子供部隊長と整列した子供達、六名と犬一匹 ◎犬二匹と両手を広げて、走っている男の子 ◎日の丸の旗をたてた戦車 ◎手を繋(つな)いで走っている女の子二人

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-304_2 「戦時色濃い着物のハギレ」 (35×60:布)

ハギレの図柄

◎軍刀を提げ(さげ)、旭日旗(きょくじつき)を手にしている男の子 ◎銃剣を持ち、軍装姿の男の子達 ◎戦車と軍艦 ◎桜と錨(いかり)のマークの大日本帝国海軍帽章 ◎敬礼姿の海軍将校姿の男の子

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-305_1 「戦時色濃い着物のハギレ」 ①ハギレ (68×187:布)

○満州国国旗 ○金鵄勲章 ○軍艦 ○手旗信号 ○旭日旗

旭日旗は、1870年大日本帝国陸軍の軍旗として使用、のち海軍も軍艦旗として採用する。

○航空帽・眼鏡 ○零戦・双眼鏡等 ○日独伊三国同盟国の国旗 

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-305_2 「戦時色濃い着物のハギレ」 ②ハギレ (44×130:布)

○新聞記事 「皇軍立ち上る」の文字 ○出征兵士の見送り風景。

子供達が兵士を乗せた列車に向かって、手をあげ、日の丸を振っている。

○たくさんの日の丸 旭日の旗 飛行機 ○敵地(中国)を爆撃している日の丸印の飛行機

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-314_1 「戦時色濃い着物のハギレ」 ①ハギレ (36×96:布)

○富士山、橋を渡る列車 ○刀を振り上げ、戦争ごっこをしている男の子達

○折紙の兜に前掛け姿の幼い男児。肩車しているのは、兄さんか?。戦争ごっごでは、犬もよく描かれる。

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-314_2 「戦時色濃い着物のハギレ」 ②ハギレ (42×128:布)

○緑の鉄兜姿、慰問袋に手をいれている男の子 犬一匹と鉤十字の旗

○飛行機 ○戦車(タンク) ○鳥

※左写真は、繰り返し柄部で折り畳んだ状態

  

 A-314_3 「戦時色濃い着物のハギレ」 ③ハギレ (41×46:布)

○戦争ごっこ。銃剣、刀を手に持った男の子達と犬一匹

○飛行機と戦車 

○南京占領の文字、陥落祝勝アドバルーンか?

  

 A-358 「戦時色濃い伏見人形②」 (13×9×8:布(木目込))

産業報国 鷲津悠々作品

作品解説(箱の上蓋に解説あり)

お国の力を、強い上にも強くするには、物資が豊かでなくてはなりません。一億一心の総力戦の秋、男も女も挙げて産業報国の実をはかりましょう。 手さばきも軽い、筒袖の上着に、足踏みも自由なモンペイをはいて、箕を持った乙女の甲斐甲斐しいいでたちは、 まさに産業報国の戦士であります。

※モンペ姿の女性と箕が二点、箱に納められているが、壊れやすい。人形の足の底には飾る為の板がついている。 1937年日中戦争が始まると、翌1938年、戦争協力の為に労資一体の組織である産業報国会ができ、戦時体制の柱となった。 産業報国とは、産業に従事する人達は、日本の国を強くする為に、軍需生産に協力し頑張ろうというスローガンである。「進め一億火の玉だ」「一億総決起」「一億一心」「ぜいたくは敵だ」のように、戦時中よく唱えられた言葉である。

  

 A-368 「肉弾三勇士の絵(額入り)」 (96×42:布)

自己犠牲の美化 (資料No.13肉弾三勇士の文鎮より) 

1932年2月、第一次上海事変下の戦闘で、三名の一等兵が、爆薬を詰めた3メートルの竹筒をもって鉄条網に突入し爆死する事件が起きた。 軍は、この事件を、突撃路を開くための覚悟の自爆と発表した為、軍国美談として、熱狂的な三勇士ブームが起こった。

三勇士を讃える映画や歌や像が作られ、新聞は「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」と呼んで、一大キャンペーンをはった。三勇士の文鎮、皿、壁掛け、花瓶なども作られ、全国的に大変なブームとなった。自分の命を惜しまず、国の為に戦った兵士として教科書に取上げられ、愛国教育の良い教材となった。当時の子供達は素直に感動し彼等を英雄として憧れ、自分達も、お国の為に命を捧げることを当然とうけとめたのである。

鉄条網に突入寸前の三勇士が、布地に描かれている絵の右上に「魂不老不死」という文字

書の号(ペンネーム)は「立雲」、頭山満の署名 頭山満の書と思われる。晩年は揮毫(毛筆で言葉や文章を書く)と囲碁を日課としていた。書を求められることが多かった。昭和19年10月、敗戦の前に亡くなっている。(89歳)

  

頭山満は、福岡県生まれ、明治から昭和前期にかけて活動した政治運動家である。欧米列強に対抗して、アジアの国々との連帯を目指した主張(大アジア主義)のリーダーである。日本に亡命した孫文はじめ、アジア各地の民族主義者や独立運動家を積極的に援助した。玄洋社は、頭山満らが福岡で結成し、国家主義運動の草分け的存在となった。彼の交友関係は大変広く、中江兆民や吉野作蔵などの民権運動家や、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝との交流、犬養毅や広田弘毅など政界にも広い人脈をもっていた。(ウィキペディア)

  

 A-373 「朝鮮総督府検査白米袋二つ 」 (41×69,40×71:布)

平壌の外港鎮南浦(現在は南浦特別市)から日本向けの米袋三十瓩入 朝鮮精米株式会社

1910年8月、韓国併合により、大韓帝国を日本が支配下に治めた。朝鮮を統治するため、朝鮮総督府が置かれた。この後、1945年日本が連合国に負けるまで約35年間、朝鮮支配が続いた。 韓国で一番の貿易港は、戦前も現在も釜山である。 鎮南浦は、平壌の海の玄関口である。鎮南浦は、日清戦争で、日本陸軍が上陸した港であり、釜山・仁川に次ぐ貿易港として発展した。

戦前、日本の米は不足気味であり、植民地の朝鮮などから輸入して、日本の食糧を支えてきた。しかし、朝鮮国内は米が潤沢にあったわけではなく、日本に米を出し、代替的食糧として、粟や高粱などを満州から求めるなど厳しい情況(飢餓輸出)であった。

  

 B-101 「防毒マスク・収納袋」